広報・広告部長 鈴木勇太

1988年生まれ。福岡医療福祉大学人間社会福祉学部臨床医療福祉学科卒業。2010年に産業カウンセラー、2015年にキャリアコンサルタント取得。一般社団法人日本産業カウンセラー協会広報・広告部長。

鈴木勇太

これまでの経歴

はじめまして。(一社)日本産業カウンセラー協会九州支部で広報・広告部長を務めている、鈴木勇太です。私は18歳まで静岡県の港町で育ち、大学進学を機に福岡に来ました。福岡の美味しい食文化、程よい都会感と自然の豊かさ、そして何より人の温かさが気に入り、今では地元よりも福岡歴の方が長くなりました。日常の中で富士山が見れなくなってしまった寂しさを感じつつも、福岡は第二の故郷と言えるくらいに好きな街です。

大学卒業後は接客業や大手人材派遣業を経験し、現在は中堅・中小企業のWebコンサルティングを行う上場企業に勤めています。その経験を見込んでいただき、2024年9月から九州支部長直轄企画室「改革PJ(プロジェクト)」でWeb周りの業務改善を企画、2025年6月の支部総会での承認を経て広報・広告部長の任を与えていただき、現在に至ります。

休日は天神や博多の街をブラブラしたりドライブに出かけることもあれば、家で動画配信サービスを見たり読書をすることもあり、アウトドアとインドアの中間のような過ごし方をしています。食べることやお酒も好きなのですが、最近はメタボ予備軍の疑いもあり、なるべく控えるようにしています…。(やめるとは言っていない)

これまでの経歴

産業カウンセラー協会に関わるまで

私が産業カウンセラーの資格を取得したのは2010年3月、22歳の時です。学び始めたのが大学4年次で、卒業と同時に資格を取得したような形となります。元々、中学や高校でもボランティアで高齢者の方や障がい者の方と交流させていただくことが多く、その流れで大学も福祉系の大学を選びました。
ですが、いざ就職するとなった時、自分には福祉や介護を仕事にするほどの情熱があるのだろうか?と疑問を感じました。

「自分が心の底からしたいことは何なんだろう…。」

そんな風に考えながら、情報収集をする中でカウンセリングに興味を持ち始めたことが、産業カウンセラーとの出会いでした。

よく皆さんから言われるのが、
「カウンセラーに相談したら何でも解決してくれるんでしょう?」
「カウンセラーの方と話すと心を見透かされているみたいで怖い。」
といったご意見です。当時の私も例外ではなく、カウンセラーになったら人の悩みをバシバシ解決できる!と思っていました。
だからこそ、産業カウンセラー養成講座で学んだ来談者中心療法の技術、そして傾聴のスタンスを学んだことは、雷に打たれたかのような衝撃でした。そして同時に、自分は今までどれだけ人の話を聴けていなかったのか、
「カウンセラーになれば何でも解決できる」
「カウンセラーは人の心が分かる」
などというのは驕りだということを、痛感しました。

それから16年以上、勉強会やボランティア活動などで細々と協会に関わらせていただいてきましたが、木村支部長から改革PJ(プロジェクト)のメンバー募集のお知らせを受け、2024年から協会を運営するメンバーとして参画させていただきました。

産業カウンセラー協会に関わるまで

私の原体験

私がこうして産業カウンセラー協会に関わらせていただくようになった原体験として、3つの経験があります。

1つ目は、私自身が高校生の時に、不登校になったことです。当時の私は野球部に所属していましたが、運動が得意ではなく、高校野球のレベルに全然ついていけませんでした。
また、小・中学校とほぼ同級生の顔ぶれが変わっていなかったこともあり、高校では新しい人間関係の構築にも苦労しました。
部活動を続ける上で、人間関係も勉強も、色々なことを頑張らないといけない。そんなプレッシャーが続き、ご飯も喉を通らなくなるなか、私の心は「夏休みの宿題が全く手をつけられていない」という些細なきっかけで、押し潰されました。たまたまそれが引き金になったというだけで、どんな理由であれあのまま頑張り続けていたら、いつかはそうなっていたと思います。
それから誰にも理由を打ち明けられず、部活動どころか学校にも行かない日々が続きました。親にもだいぶ心配をかけてしまい、総合病院や鍼灸院など、様々な病院に連れて行ってもらいましたが、心療内科だけは頑なに断り続けました。
今思えば、あの時カウンセラーに相談できていたら…と思うのですが、頑固者の私は「自分は心の病に罹るほど弱くない」と、意地を張ってしまいました。ただでさえ高校での新しい人間関係や、高校野球のレベルについていけない自分が、メンタル不調であることまで認めてしまったら、自分が何の価値もない人間だと認めてしまうのではないか…そんな錯覚に陥ってしまっていたのだと思います。

その後まわりの支えもあって何とか再起し、留年もすることなく高校を卒業。福岡の大学に進学し、そのまま福岡で就職しましたが、2社目で「うつ」を経験したことが2つ目の原体験です。20代半ばの時でした。
新卒で入社した1社目を1年強で退職し、もう失敗できないと思って入社した2社目でのハードワーク。電車で片道1時間以上の距離を通い、夜帰れないことも多く、その時は会社の床で寝るという日々。帰ってもストレスによる深酒が続き、学生時代に60kg台だった体重は80kgを越えました。
それだけ頑張っても上手くいかないことが多く、上司からの怒号や叱責が飛び交う日々。風邪を引いても「仕事が終わらないから」と、病院にも行かずに働き続けましたが、免疫力が無くなり症状は悪化。いよいよ高熱が出て病院に行った時に、医師から「白血球が激減している」と言われ、絶対安静を言い渡された時は、点滴を打ちながら何故か涙がこみ上げてきました。
それから暫くして、身体は治っていましたが、会社に出社しようとした時に急に涙が止まらなくなり、心が限界を迎えていることを悟りました。高校生の時とは違い、私自身がカウンセリングを学んでいただけでなく、社会的にもメンタルヘルスが徐々に注目され始めてきていたこともあって、すぐに心療内科に行きました。
結果はうつ状態という診断で、復職まで2ヶ月掛かりましたので、軽度のうつ病だったのだろうと思います。幸い私は復職できましたが、その後も十数年の社会人生活のなかで、多くの人がメンタル不調によって職場を去るのを目の当たりにしました。中には当時の私の部下もおり、私自身が何もできないどころか、不調を引き起こす側に立ってしまうという経験もしました。

私の原体験

生きづらいと感じてきた私だからこそ、力になれる人がいるはず

そんな経験を通して、私の中で「誰もが自分らしく生きられる世の中を創りたい」という想いが芽生えていき、36歳の時に産業カウンセラー協会の運営メンバーとして、より深く関わらせていただくことになりました。そして、これからの社会ではカウンセリングをはじめとした対人支援を社会インフラとして、誰でも当たり前に受けられるものにしていきたい。そんな想いで、協会の運営に関わらせていただいています。

この「対人支援を社会インフラにする」という想いに深く関わるのが、3つ目の原体験です。私が中学生の時、祖母が自ら命を絶って、亡くなりました。孤独死でした。
その日、私は第二志望の高校受験の当日で、友達と自転車で受験会場に向かう途中で200mほど先にある祖母の家の前に、救急車が止まっているのを目にしました。距離があったこともあり、当時の私はまさか祖母の身にそんなことが起きているなどとは想像もつかず、友達に「おばあちゃんの家の辺りに救急車が止まってるんだけど…。」と言いましたが、時間に余裕がなかったこともあってそのまま受験会場に向かいました。
訃報を知ったのは、自宅に帰った時でした。その時、私の中には後悔の念しかありませんでした。訃報の1週間前に祖母の家に行った時、いつものように近くの定食屋さんでラーメンの出前を取ったり、漫画を読んだりしながら過ごしていましたが、ふと祖母の背中が寂しそうに見えました。家に帰る前に祖母の肩を揉んであげた時、祖母が「ありがとう」と言ってくれた、あの瞬間…もし私が「どうしたの?」と話を聴いてあげられたら。当日、高校受験をすっぽかしてでも、一緒に救急車に乗って、声をかけてあげられたら。今でも、あの時のことは何よりも後悔し続けています。

「世の中は、何でこんなにも生きづらいのか。」
思えば、祖母を亡くしたあの日から、そんな疑問を持ち続けてきたように思います。そして私自身もメンタル不調を経験してきたからこそ、心の病を無くしたいと、本気で思っています。誰もが自分らしく生きられる世の中を実現することで、メンタル不調による不登校や休職、そして自殺を無くしたい。原体験としてそれらを経験してきている私だからこそできることだと思うのと同時に、あの時に救えなかった命を救うことが、私にとっての使命であり、贖罪でもあると感じています。

生きづらいと感じてきた私だからこそ、力になれる人が居るはず

運営幹部としてやっていること、感じていること

そうした個人的な経験があるからこそ、今はカウンセラーとしてだけでなく、協会運営にも、広報・広告部長として携わっています。基本的なWebサイトの運用は事務局の皆さまが日々頑張ってくださっているので、私は集客のためのWebマーケティング施策やブランディング、SNSの運用などを任せていただいており、いわゆる中の人みたいなこともやっています。(絵文字を沢山使うんだね、と突っ込まれますが、中の人をやっている時と、パートナーとLINEする時だけです…)

本業でWebマーケティングに携わっているので、そこで学んだことを支部運営にも生かせる一方で、兼業だとどうしても時間が足りない、と思うことは正直あります。ですが同時に、私のことを信頼して任せてくださる木村支部長や幹部の皆さま、そして改革PJからの同期の存在に救われているおかげで、何とか頑張れています。

運営メンバーの中には私のように、他に本業を持ちながら支部運営に関わっている方もいらっしゃいますが「ここまでやれるのは凄い!」と尊敬できる方ばかりです。仕事だからとか、給料をもらうためとかだけでなく、本当に産業カウンセラーを心から愛し、世に広めていきたいと思っている。そんな想いを持ったメンバーが揃っているからこそ、私もその一員にさせていただいていることに、嬉しさと責任感を感じています。

運営幹部としてやっていること、感じていること

私自身がこれから思い描くビジョン

どういう形になるかは分かりませんが、何かしらの形で本業でも、対人支援に関わっていきたいと思っています。新卒の時から変わらない想いとして、1日8時間、1週間のうち4分の1程度の時間を使うのであれば、お金のためだけではなく自分のしたいことをしたいと思っています。そのために今はコーチングも学び始めており、今後も対人支援の知見を学び続けたいと考えています。

同時に、個人としてカウンセラーやコーチの活動をしていくことも考えていますが、どういう形であれ、産業カウンセラー協会には関わっていきたいです。対人支援の輪を広げていくために、私一人にできることは限られています。特に、個人としての活動はCtoC(個人対個人)を主に考えていますが、組織に属する働く人をどのように支えていくか、というのは大きな課題です。だからこそ、BtoB(組織対組織)の領域で私がしたいことを、産業カウンセラー協会を通して実現できればと考えています。

(一社)日本産業カウンセラー協会九州支部では、産業カウンセラーや国家資格キャリアコンサルタントの資格を目指す同志や、一緒に支部運営を支えてくれる仲間を随時募集しています。もし、この記事を通して何か一つでも共感してくださる方がいらっしゃったら、電話やメール、無料体験などお気軽にお問い合わせください。

私自身がこれから思い描くビジョン